自分語り#654 心療内科の風景 (2782文字)

本日は心療内科に来ています。私は専業作曲としての自営業なので、朝の通勤ラッシュに近い時間に電車に乗る機会というのは数週間に一度のこのカウンセリングの受診ぐらいしかありません。

 

通勤ラッシュといっても時間としては九時を過ぎており、とっくにピークタイム後と言えるでしょう。「よし頑張れ、あと二駅。」と念じればなんとかなるぐらいの時間です。毎日通勤ラッシュの電車に乗れる、何度もブログやトーク動画「頭の悪いパナシ」等でお話していますが、私はこれは本当に誇れる才能だと思います。

 

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多くの受診患者がそうかと思われますが、現在の主治医に落ち着くまでかなりの数の心療内科をまわる必要がありました。これは心療内科受診ではあるあるで通称「医者ガチャ」と言いますが、セカンドオピニオンとかそういう次元ではないのですね。如何に精神医学界というのが初段階の分野なのかがよく分かります。先進医療分野とやや後進の医療分野というのは色々あるかと思われますが、仮に風邪でお医者様に行ったとして五カ所受診して五個の異なる病名をつけられる医療領域というのは流石に希ではないでしょうか。一万人に一人の難病なら分かりますが、日本の躁・鬱病人口112万人(2017年)に対してこの誤診率は大変なものです。(「鬱は心の風邪」ではないのですか、ないのでしょうね。)

 

それはさておき、沢山の心療内科へ足を運んで平均して感じるのは、心療内科の予約時間というのはあるようなないような感じ、ということです。通勤ラッシュと被る時間に受診できる人はまだ結構元気な方で、夕方の方が受診時間としては多いですよね。だってみんな起きれないんですから。それで、起きれたからといって次は外に来れる元気があるかどうか分からない、というのが心療内科です。頑張ってこれても三時間遅れとか、泣きながら「すみません今日は行けません」と受付に電話来るしてくる人(客観的に考えてそれは泣いて謝るほどのことではありません)。

 

危機と人類(上)

危機と人類(上)

 

 

では受診するだけの元気があるから受診には来るもんだというわけでもありません。(この文章、日本語が変です。病院は元気がない時に来るものですが、心療内科は受診に来る元気がある人だけが来る治療施設なのですね。)今ちょうど読んでいる本に「ジャレド・ダイアモンド / 危機と人類」がありますが、本書冒頭には個人的危機と国家的危機を解決する為の一二条項が並べられており、個人であれ国家であれ危機を乗り越えるための第一条は「自らの危機を危機であると認識していること」です。これは特に統合失調症の人は困難なことですが、通常の鬱病(正式には大鬱病)症状の人であれ人生ではじめて向かった心療内科が自分の意思であることは少ないと思われます。自分は「病的状態である」と認識出来ないのですね。治療が開始されてからも何か自分の予想と違うことが起きると医者に憤慨して家族の反対を押し切って治療を停止してしまう、逆に本人は「助けて欲しい」と言っているのに家族が「おまえのはただやる気がないだけでしょ」と引き留めにあったり、援助を停止してしまったりする。この援助、というのに「一緒に来てもらう」というようなものも入ります。私は一番ヤバイ時期(一番ヤバければもうトイレにも行けない)からちょっと回復しはじめたギリギリ外を歩けるラインだった時期の運転免許更新を父に同行してもらったことがありました。一人では外を出歩けないのですね。道に迷って人前で泣いてしまったりとですね、こういう援助も含めて停止されてしまう。病識を持つこと自体も大変なのに、家族がそれを阻害してしまうことすらあると、なんだか書いていて解決不能なパターンが多すぎて気が滅入ってきましたね。

 

最近は周知がかなり進んできたため、これは結構改善されているそうですが、代わりに「発達障害ブーム」と言われ、よく分からないけれど私の身の回りの問題は発達障害のせいに違いない→異なる病名を診断される(しかもこれが正しい診断か誤診かは大体は一回目ではよく分からない。「医者ガチャ」という単語が常識となってしまっていることを思い出してみて下さい)→憤慨して自分がはじめから「私は何々障害に違いない」と確信している診断をする医者に当たるまで受診を繰り返す→見事「発達障害ラベル」を獲得、そして異様に発達障害者が増えていく、ということが問題になっているそうです(じゃあ正しい医者ガチャ術って何でしょうね、それは私には分かりません)。「よく分からないけれど私の身の回りの問題はAのせいに違いない」の「A」には一昔前なら「狐」等が代入可能です。

 

精神病院に入院する時や、知人の入院手続きのつきそいをする時にいつも感じるのですが、若者の入院には必ず家族や伴侶が同行してきていますが、老人の入院手続きは老人が一人でしています、この区分けは殆ど全員そうと言い切れるぐらいの本当に全員そんな感じなのです。この老人はそれでもなんとか医療機関に関われた幸運な方の方々なのでしょうが、家で完全に放逐されている老人の人数、長期引き籠もりで病的二次障害を起こしているのに放置されている中年人口は想像することもままなりません。

 

なんでこんな文章を書いているかというと、丁度今が心療内科に受診に来ての待合時間でちょっと暇になってしまったからなのです。心療内科によって待合室の「配慮」の方法は相当に異なります。「この距離感は何なの?」と思うほど一席一席の距離が開いている待合室(その医院はパーソナルスペースに敏感な方が多いのかもしれません)、入り口のドアに始まりトイレの全ての部位に至るまで一回も手を使わずに帰れる仕様になっていたり、自分専用の室内履きを使えるようになっていたりする医院(その医院は潔癖・完全主義に敏感な方が多いのかもしれません)、それで、私が主治医がいる今このクリニックもそうですが、一番多いのは超ロングソファーでしょうか。そして見渡せば必ず一人はそこに横になっています。首も腰も垂直を維持することが出来ないのですね。そのお気持ち、よく分かります、私も以前は「鉛様麻痺」という症状で座っていること自体が殆ど維持できない時期がありました。今いる医院はこのタイプですね。横になっていなくてもほぼ「首が座っていない」患者さんも沢山見受けられます。皆、それぞれに異なる問題を抱えているのですね。本当に大変な状態だと思われます。

 

本日は心療内科の景色でした。お会計の時間なので今日はここで失礼します。